心底苦しかった過去が人生を考えるきっかけに…もう1つの自己紹介

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僕が 虹色ライフ を提唱するのは、自分の人生は自分で描いて生きていきたいという強い意志があって、その生き方こそが最も幸せな生き方だと認識しているからこそなのですが、そのような価値観を抱くに至ったきっかけというのが、僕自身の過去にあるのではないかと思っています。

本当にあの時があったから今のような価値観に至ったのかどうかは、いまだに自分でも分かりませんが、少なくとも僕の人生において生き方を考えるきっかけになっていることは間違いないので、いま一度ここで当時を振り返って、改めてこのビジネスに対する僕の想いをまとめてみたいと思います。

小学6年生男子の感じたなかなかの重圧

僕は小学校を卒業するまでは、熊本県の山奥の田舎町で育ちました。

僕が九州の出身だと告げると、大抵の方は暖かい地域からきた人間だと思われがちなのですが、その認識は全く違っていて、如何せん山奥なので、冬は零下まで気温が下がり、町には雪が積もり水は凍って、現在住んでいる東京都内より遥かに寒い場所でした。

 

中学生に進学すると同時に、小学生まで住んでいたその町から車で1時間ほど離れた熊本市へと引っ越したのですが、当時の僕は、やっと暖かいところに住めるという安堵感と、憧れの都会に住めるという喜びで胸を躍らせていました。

※山奥の田舎町が世界の全てだった当時の僕にとって、熊本市は大都会でした(笑)

 

と同時に、それなりに不安もあって…。

小学生の頃に好きで観ていた『北の国から』というドラマがあります。

名作『北の国から』

説明が長くなるので詳細は割愛しますが、俗な言い方をすると「都会は進んでいる」ような部分がドラマ内で描かれていたのです。

その影響もあって田舎から都会に出ると、様々な部分で「ついていけない」部分がありそうで怖い…という思いが僕の中にあったんです。

都会の人の勉強についていけるのか、都会の人の運動についていけるのか、都会の人の価値観についていけるのか、都会の人の洋服についていけるのか…

今思えば笑えますが、子供にとってその重圧はなかなかのものです。

 

生きた心地ゼロの中学1年生

中学入学早々に全国一斉の学力テストなるものがありました。

テストが実施されることを知っていた僕は、都会の同級生に置いて行かれるのではないかという不安から、人生で初めて自ら率先して勉強というものを行ったのです。

 

・・・。

 

しばらくして、結果が出ました。

勉強は裏切りませんでした。

学年で8位、クラスで2位。

あれ?そんなもんか。

この時の率直な感想です。

 

「勉強ってやれば結果が出るんだ」

そう認識したのもこの時が初めてでした。

そうなると、子供って単純です。

「もうちょっと頑張ってみようかな…」

人生で唯一勉強というものに励んだ時期です。

 

1学期の中間テスト、僕は学年で4位、クラスで1位になりました。

次の期末テスト、学年で1位になりました。

 

・・・。

 

ここで僕の中で歯車が狂い始めました。

もう上を目指せない、追われるだけの人間のモチベーションは一気にトーンダウンしていました。

が!

周囲の目はそうではありませんでした。

「山下という優等生が1年1組にいる!」

先生からも保護者からもそんな視線を浴びるようになりました。

元来、勉強というものが大嫌いだった人間が、やれば結果が出ることを知ったことで、単純にモチベーションが上がって、一時期だけ必死になっていただけなのに…。

しかも、成績が良いというだけで、「優等生」のレッテルを貼られるという息苦しさ。

勉強なんて大嫌いな人間が、都会の人についていけないことへの不安から頑張ってみた結果、たまたま良い結果を出してしまったことから、モチベーションが上がってさらに頑張ってみた結果、追われるだけの立場になり、モチベーションが一気に下がったものの、周囲の評価はそれを許さず、追い込まれていった…

簡単にまとめるとそんなところです。

 

「みんなの期待に応えなきゃいけない」

「優等生らしく振舞わなきゃいけない」

僕という人間のアイデンティティは消え失せていきました。

 

2学期に入る頃には、学校に行くのが大嫌いになりました。

僕は頭の悪い人間だということは自分で認識していました。

だから、周囲の人間と同じようにやっても、理解力が著しく乏しかった僕は、量をこなすことでしか結果を残す方法がありませんでした。

頭の悪い人間が学年1位をキープしなきゃいけない重圧に押しつぶされそうでした。

いや、正確に言えば、すでに押しつぶされていました。

常に完璧を求められる重圧は僕の心をどんどん蝕んでいきました。

 

テストのたびに、先生たちは僕にこう言いました。

「山下、今回のテスト、満点何個あった?」

オレは満点をとる前提なのか…。

気が狂いそうになりました。

 

僕の心の病は次第に悪化していきました。

授業中は先生の発言をひと言も聞き逃せないことがプレッシャーでした。

満点をとらなきゃいけなかったからです。

常にパーフェクトでいなきゃいけなかったからです。

先生の発言をひと言でも聞き逃すと、パーフェクトではなくなる気がして怖くて仕方がありませんでした。

聞き逃そうものなら、体が一気に熱くなり、震えが止まらなくなるのです。

 

そのうち、授業中に勝手に涙が出るようになりました。

でも先生の発言を聞き逃すわけにはいかないので、必死で授業に挑んでいました。

授業に「挑む」。

まさにあの頃の僕にピッタリの表現だと思います。

 

さらに少し経つと、「分からないこと」「知らないこと」への恐怖が芽生えるようになりました。

これが何を意味するのか、想像してみて下さい。

勉強って、基本的に毎日知らないことを学んでいくわけです。

その知らない状態で授業に挑んで、授業が終わった時には、全く何も疑問がない状態じゃないと恐怖を感じるようになっていったのです。

授業を受けることが恐怖でしかありませんでした。

もし、理解できなかったらどうしよう…

覚えきれなかったらどうしよう…

そんな思いを抱えながら、震えが止まらない熱くなった体で、涙を流しながら授業を受けていました。

 

ここまでくると「知る」ことに対する恐怖を抱くようになっていきます。

自分の知らないことを耳にすることが怖いのです。

知らないことを耳にして、少しでも理解できなかったら…

そう思うと恐怖でしかありませんでした。

 

家でも学校でも、人と会話をすることが怖くなりました。

テレビを見ることが怖くなりました。

新しいものを目にすることが怖くなりました。

とにかく「情報」を取り入れることが怖いんです。

理解できなかったら頭も心も爆発しそうになるからです。

 

一日がとてつもなく長く感じました。

早く学生生活が終わればいいと思っていました。

高校卒業まで、あと何日苦しめばこの地獄が終わるのかを数えるようになっていました。

 

甲子園だけを夢見て没頭していた大好きな野球にも全く集中できませんでした。

放課後に部活をしているときには、常に次の日の不安でいっぱいでした。

部活が終わって、友人たちと帰宅しているときの会話が恐怖でした。

次から次に情報が入ってくるからです。

人と話すことが恐怖でしかありませんでした。

 

そのうち、クラス代表として生徒会の役員に推薦されました。

「優等生だから」

そんな単純な理由でした。

放課後はやりたくもない生徒会の業務をやることが増え、野球をできないことへのストレスがどんどん大きくなっていきました。

 

でも僕は一切自分の主張をしませんでした。

というか、自分の主張をするという選択肢を思いつきませんでした。

それほどまでに心が弱っていたのです。

完全に洗脳された状態だったのです。

優等生でいなきゃいけないんだ…

成績優秀でいなきゃいけないんだ…

期待を裏切っちゃいけないんだ…

そうやってずっと生きていかなきゃいけないんだ…

 

そんな状態にありながら、当時の僕は、家族を含め誰にも相談なんてできませんでした。

説明のしようがなかったからです。

理解してもらえるように説明できないからです。

また、そんな相談をすること自体が、裏切りになるとも感じていました。

 

そのうち、朝起きるとすぐに心臓の鼓動が激しくなり汗が止まらないようになりました。

登校していると気が遠くなる感覚に見舞われるようになりました。

「オレ、このまま倒れてこの世から消えてしまうのかな」

そんな恐怖も芽生え始めました。

生きていても怖い、命を落とすことも怖い…

僕の居場所は、もうどこにもないように感じていました。

 

等身大のオレを見てくれ!

 

誰に宛てるでもなく、心の中で叫んでいました。

 

回復の兆しが見えた中学2年生

2年生になり、また1年前と同じように学力テストがありました。

進級前の春休みは、食事、トイレ、風呂、部活…以外の全時間を勉強に充てました。

僕は頭が悪いのです。

あれだけ時間をかけて覚えたこともすっかり忘れてしまっています。

またイチから勉強を繰り返さないと、中学1年生分の授業内容に対応できないのです。

 

この春休み、僕より勉強をしている同級生はこの世にいないと思っていました。

必死でした。

来年の春休みは、この倍以上勉強しないと追いつけないんだと思うと、苦痛で仕方ありませんでした。

 

しかし!

 

僕はこの時のテストを機に、心の病が少しずつ治まっていったのです。

この春休み、誰よりも勉強をして挑んだテストの結果、学年で8位の成績に終わったからです。

 

悔しさや恐怖は一切なく、ホッとできたことを覚えています。

ようやく肩の荷が下りた気持ちになりました。

誰よりも準備をして万全で「挑んだ」テストの結果がそうだったからです。

 

もう自分を大きく見せる必要がないんだ…

そう思うと、安堵感でいっぱいになりました。

 

もちろん、この出来事だけでこれまで病んでいた心が一気に改善されたわけではありません。

昨日まで病みに病んでいた壊れてしまった心が修復するのは容易ではないのです。

それでも、徐々にではありますが、生活の中で抱いていた恐怖感や不安は薄れていきました。

授業中に涙することも、震えて体が熱くなることも、朝起きて激しい動悸に見舞われることも、登校中に意識が遠のくことも、次第になくなっていきました。

2年生の秋には、等身大の自分になれていたように思います。

 

「山下に何かあったのか?」

「山下は変わってしまった!」

先生たちはそう心配していましたが、僕は自分らしく生きている実感に喜びを感じていました。

成績は一気に低下し、やりたくもない生徒会活動からは遠ざかり、大好きな野球に没頭し、友人たちと気兼ねなく話をできる。

等身大の自分でいられることの幸せを感じることができる日々が、ようやく訪れたのです。

 

改めて…自分らしく生きることの素晴らしさを!

やっぱり、人生は、自分で描いてこそだと思います。

あの時がきっかけになって今の僕の価値観が形成されたのかどうかは分かりませんが、今の僕の人格はあの時の経験が大きくかかわっているということだけは間違いありません。

 

当記事を書き連ねながら、当時の状況を思い出していたのですが、やはり、何度思い返しても苦しいです。

鮮明に思い出すことができます。

 

何かのきっかけで僕という人間と出会ったあなたには、やはり「自分らしく生きてほしい」。

そう心から願っています。

著者プロフィール

沖縄を溺愛する元プロアスリート。

沖縄旅行でグルメ・観光・海水浴!10月終わりも遊泳期間の常夏を満喫♪

沖縄本島リゾート婚!結婚指輪&オープニングムービー制作の満足度は?


社会のしがらみ(人間関係)や、世の中の様々な束縛(お金・時間・場所)から解放されて生きる『虹色ライフ』を広めるべく活動中。


幼い頃から、人と同じことをするのが苦手で、「自分の人生は自分でデザインする」 という信念を貫いて生きる。

超未熟児で誕生し、年間の半分以上、保育園や学校を休むほど病弱で虚弱体質な少年時代を送る。

「前に習え」は、常に腰に手を当てて先頭に立つようなチビだった。

野球少年ながらも、気持ちに肉体がついていかない息子を見かねた両親のススメで、少林寺拳法を習い始め、自身の秘めたる才能に気付く。

当時の人生の目標は、高校生になって甲子園に出場すること。

…。

高校受験の時期。

周囲の大反対を押し切って、自ら隣県の高校に電話をかけ、願書を郵送で自宅に送ってもらい、甲子園常連校へ進学。

親元を離れ、寮生活となった高校時代は、まさに野球漬けの日々。

しかしながら、体育会系の理不尽な上下関係に苦しんだ挙句、2年生への進級を機に、理不尽な伝統を受け継ぐ先輩にはなりたくない一心で、夢を諦め退部。

生き甲斐のない毎日を送っていた、大学1年生の時、日本ボクシング界のカリスマ、辰吉丈一郎さんの生き様を目の当たりにし、ボクシングに挑戦することを決意。

ボクシングの世界観にハマり、程なく、本格的にプロを目指す。

嘘の通用しない世界で、文字通り裸一貫の自分で勝負したいとの思い、そして辰吉丈一郎という生き様に魅了されての決意だった。

就職活動をする周囲をよそに、信念を貫き通し、大学卒業後はプロボクサーとして約10年間の選手生活を送る。

引退後も、雇われて生きるという選択肢は自身になく、何かしらの事業をやることを考える。

そんな折、ネットビジネスの存在を知る。

知れば知るほど、このビジネスに大いなる可能性を感じ、多くの失敗を重ねながらも、徐々に結果を残せるようになっていく。

現在の信念は、この世に生きた証を残すこと。

世の中に多くの価値を提供することで、たくさんの「ありがとう」に囲まれて生きることこそが、唯一、自身の存在を証明できると方法だと信じている。



そんな僕の提唱する「虹色ライフ」の詳細は…


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